昭和五十六年一月十七日 朝の御理解


御理解第九十二節
「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」


 この御理解を頂きますと、いよいよ取次者たるもの力を受けなければならないなあと思います。力を受ける事によって自分が助かるだけではなくて人が助かる。勿論神様の比礼も変わってくる。この神様は最後に取次の者が朝が早いと遅いとでは信者が早い遅いにかかわるというふうに言うておられますという事。氏子の参詣の早い遅いにかかわるぞと。
 これはだから、取次者だけが頂くという事ではなくて、お互い各々の御信者の皆さんの場合であっても、この神様はそんな神様だなあという事を分からなければならない。そこに信心にも工夫がいる。我が心からも練り出せとおっしゃる。練り出す事がいる訳です。いわゆるその信心の在り方によって早ければ早いおかげが受けられ、遅ければやはり遅くなるぞとはっきりこの神様は、はっきり教祖の神様が把握されておる事を思います。
 まあ、いうならば心次第、信心次第。そこで自分の心に、もういやが上にも自分の心を本気で見極めて心のいうならば、在り方というものを小さい心なら大きく、汚い心ならばきれいにさして頂く修養をしなければならんという事が分かります。心次第であり、信心次第である。同じお参りをさせて頂くでも、日参というても、やはり自分の都合のよい時にお参りをするというお参りの仕方もある。やっぱし日参である。というと五時の御祈念であるなら、五時の御祈念に間違わないように狂いなくお参りをするという人もある。そこにいうならば狂いの無い信心に、おかげの方も狂いの無いおかげが受けられるという事を、ここでは教えられておられると思うんです。
 だから、ん、ならお参りの仕方、自分の祈りの内容といったようなものも、だから段々工夫しなければならないし研究しなければならんという事が分かります。もうそれ次第なのだから。こんなお参りの仕方ではいけまい。こんな内容では、こんな貧しい内容では豊かなおかげを頂ける事はないと自分の心の貧しさを分からしてもらい、いよいよ豊かになる事を努める。精進すればしただけおかげの受けられる神様という事がいえますね。どうでもひとつ工夫させてもろうて大きなおかげを頂くなら、ひとつ大きな心を目指さねばなりません。きちっとしたおかげを頂きたいと思うなら、信心にぴしっとした節度を作らなければいけません。
 これは、私もそれを思う。教祖様じゃなくても、私でもそう思うです。もう間違いなしに、この神様は、その人のいうならば信心なりのものであるという事。
 今朝方というか、やっぱ今朝方です。目を覚まさせて頂いたら時計が九時なんです。九時なんぼです。そんな筈はない。たいがいいい加減眠ったごたると思うて、目がうすいもんですから、いくつも時計がありますけれども分からん。テレビを押したけど、テレビも写らん。こうりゃどうしたこつじゃろうかと思うて、とうとう家内を起こして、それから時計を持って行って見せましたら、もう二時であった。時計の方が狂ってる訳です。
 私は思わせて頂いた。ほらもう時計がどうであって、今日はおそなしたとかいうような事が、よく皆さん申しますけれども、時計の方が狂っておるのじゃなくて、こちらの方が狂っておる時なんだという事です。ねえ、だから神様が、まあこれが狂っておったら、それこそまあ朝の御祈念にも間に合わないような事にもなりかねなかった所ですけれども、おかげを頂いて、それを気付かさせて下さった。
 それだけはいうならば、それに気付かさせて頂いて、時計を見て廻ったりテレビを入れてみたり、まあそういう手は取りましたけども、おかげで狂いなく間違いなくおかげを頂く事がでけた。
 兎に角狂いのでまいりましたら時計が狂ってるのじゃない。こちらが狂ってるんだという頂き方をね、いよいよ身に付けて信心を進めてまいりますと、もうそれこそいやでもおかげが受けられましょうね。きちっとしたおかげが受けられます。向こうの方が狂うておるのじゃない。こちらの方が狂うておる。一事が万事にそういう頂き方をいよいよ身に付けて、昨日の御理解の中に佐田さんの事を申しましたように、修行の観点というものがね、修行の焦点になる所をより本当の所に焦点を置かなければならない。
 私共は、こうやって朝の御祈念に出らしてもらったり、朝の、皆さんであるなら、御祈念にお参りする事が修行だと、こう思っておるけれども、それは修行じゃない。前の晩からの、いうならば前の日からの、いうならば心、体のいわゆるコンデーションをきちっとさせて頂いて、その事が修行だと。
 目に見える所を大事にするというのは、丁度御祈念に出て来ておる、これが目に見える所の修行であり、目に見えない修行。むしろその目に見えない修行をする事が大切だと言われる。いうならば前の晩から、いうならばコンデーションを整えておく。そういう事こそが本当の修行だというふうに佐田さんは言うておられます。
 私が、いうならば時計を自分自身で改めておれば、そういう間違いはおこらなかったのですけれども、前の晩のいうなら不行き届きであった事を思わせて頂きます。前の晩の修行が出来てなかったと、こう思います。まあ子細な事の中からでも、そういうように私は自分の信心を、いよいよきちっとしていく。ここにはっきりと早いと遅いは、信者の早い遅いにかかわると言われるという事はね、そんなにも間違いが無いという事なんです。その間違いの無い信心をいよいよ進めていきたい。そこに焦点を於いての、いうならば本気での稽古さして頂きたい。どうぞ。